生きる。
2009年 10月 14日
大切な人を亡くし、幾週間かが過ぎました。
悲しみは日増しに狭く、深くなるようで、現実をあるがままに受け入れることは非常に難しいと痛感しています。
堪えがたい感情はいかなる言葉をも無力にするほど強烈で、脳裏にやきつくすべての思い出が刃となって自身を切り刻むようにも感じます。
抗いようのない感情のうねり、まとまりなく錯綜する思いをこのノーテンキなブログに吐露し、見知らぬ読者の方々と共有することを躊躇していましたが、過ぎた日々をブログ上の日記で振り返り、故人の存在があったゆえに過ごせた幸せな日々を想い、感謝し、今ここにその人の生きた証として、記憶の断片を記したいと考えるにいたりました。
おそらく、少しずつしかお話しすることはできないと思います。書いてもまた消すようなことがあるかもしれません。また、それがこのブログの読者になんの意味をもたらすのか分かりません。それでも、これが今の私の日常であるということなのでしょう。
☆
故人が骨になり、宇宙の一物質と化したことを理解はしても、理性と心は必ずしも一致しません。
うねっては返す感情の波に漂い、立ち上がろうと力を入れた次の瞬間には根底から崩れ落ちていく、これを一日中とりとめもなく繰り返しています。いつか見た映画のように慟哭し、そのうち半狂乱になって、帰ってきてほしいと、一目でいいから会いたいと、触れたいと、抱きしめたいと、愛していると泣き叫びたいと思うのですが、なぜか今、私はただ静かに泣くよりほかになすすべがありません。
☆
告別式の日、住職は言われました。故人は納得して亡くなっている。「ごめんね、ありがとう」と、そういう穏やかな気持ちだけが伝わってきますよと。そして疑い深い俗人;私は思いました、「誰にでも言ってるんちゃウン!」。でも、他方で信じたいという気持ちがあり、住職が続けた言葉が本当であれば本当に良いのにと思っています。「故人があなたと出会い、亡くなる日まで過ごせたことを幸せに思い、感謝していることを理解してあげることです」――。私はしかし、やはり、信じたいのです。
☆
死は、日常の延長にはありません。
予期しないもので、また想像しうる「理解」の範疇を超えていました。
私は今、死後の世界を案じ、霊を弔い、祈る――。こうした古来からのしきたりが持つ意味を探り、哲学者の言葉を借り、仏典の教えを頼りに救いをえようともがいています。
お経をとなえて成仏を祈り、故人は海に帰ったのだと落ち着きを取り戻し、空からあなたを見守っていると言われて頷いてはみるものの、いやそうではない、もはやカルシウムと化しただけだ、見守っているかなど分からない、今はすべてが無に帰したのだ、いないという事実がだけが真実なんだと投げやりな気持ちにもなります。
そして最後には、この存在の無、無がもたらす混沌とした感情の渦を、すべて受け入れざるをえないことに愕然とするのです。
私にとって「死」は、受け入れられるものであると同時に受け入れられないものであり、そこに横たわる厳然たる真実でもあり、およそこれまでに見聞きした言説によって説明しうるものではありません。あらゆる書物は私に何かを問いかけますが、いかなる崇高な教えも哲学も、結局は自分の信じる道を模索する行為にほかならないと今は思うのです。
「人の死は、どうにもできない事実である」と友人は言いました。また「残された本人にしかこの事実を消化することはできない」とも言いました。私は小学校来のこの友人の存在に感謝しています。
結局のところ、答えは自分の心の中にしかないのでしょう。
☆
故人がいないと夢で泣き、朝目覚めてやはりいないと泣きました。これがいつまで続くのか、想像すれば果てなくて息苦しくなります。ともに歩んだ道、愛でた景色はいつかの時まで封印されることになるでしょう。それでも、私には生きていくという以外に選択肢を持ちません。こうしてここに今の気持ちを記して、ひとまず今日を生きるという心持ちで立ち上がり、前を向くべく努めています。私は今この時に、声をかけてくれる存在に感謝してやみません。
☆
もしも、これを読むあなたに耐え難いと思うつらいことがあっても、どうか生きてください。あなたがそこにいるだけで、幸せに思う人がいます。あなたの求める言葉のかけ方、優しさの示し方が分からない周囲を許して、生きてください。
もしも、これを読むあなたに愛する人がいるならば、そのことを伝えてあげてください。愛していると抱きしめてあげてください。言葉にしてはじめて伝わることもあると思うからです。
もしも、あなたの支えとなるささやかな喜び、人があるならば、そのことに気づいてあげてください。嬉しいと、ありがたいと伝えてあげてください。伝える相手がいるうちに伝えることに意味があると思うからです。
生きていることに意味があるのかどうか、私には分かりません。それでも、思い通りにならないことが7あったとしても、残り3の喜びに幸せを見出すのが人生なのではないかと思います。そして生あるかぎり、やり直しは何度でもきくものです。そのうち、死は誰の上にも静かに訪れます。長く時間をかけることもあれば、その日は突然訪れるかもしれません。だからその時まで、今そこにある小さな身近な幸せを幸せと気付いて、かみしめてください。きっと人生というのはそうしてゆっくりと歩んでいくものなのだろうと私は思うのです。
悲しみは日増しに狭く、深くなるようで、現実をあるがままに受け入れることは非常に難しいと痛感しています。
堪えがたい感情はいかなる言葉をも無力にするほど強烈で、脳裏にやきつくすべての思い出が刃となって自身を切り刻むようにも感じます。
抗いようのない感情のうねり、まとまりなく錯綜する思いをこのノーテンキなブログに吐露し、見知らぬ読者の方々と共有することを躊躇していましたが、過ぎた日々をブログ上の日記で振り返り、故人の存在があったゆえに過ごせた幸せな日々を想い、感謝し、今ここにその人の生きた証として、記憶の断片を記したいと考えるにいたりました。
おそらく、少しずつしかお話しすることはできないと思います。書いてもまた消すようなことがあるかもしれません。また、それがこのブログの読者になんの意味をもたらすのか分かりません。それでも、これが今の私の日常であるということなのでしょう。
☆
故人が骨になり、宇宙の一物質と化したことを理解はしても、理性と心は必ずしも一致しません。
うねっては返す感情の波に漂い、立ち上がろうと力を入れた次の瞬間には根底から崩れ落ちていく、これを一日中とりとめもなく繰り返しています。いつか見た映画のように慟哭し、そのうち半狂乱になって、帰ってきてほしいと、一目でいいから会いたいと、触れたいと、抱きしめたいと、愛していると泣き叫びたいと思うのですが、なぜか今、私はただ静かに泣くよりほかになすすべがありません。
☆
告別式の日、住職は言われました。故人は納得して亡くなっている。「ごめんね、ありがとう」と、そういう穏やかな気持ちだけが伝わってきますよと。そして疑い深い俗人;私は思いました、「誰にでも言ってるんちゃウン!」。でも、他方で信じたいという気持ちがあり、住職が続けた言葉が本当であれば本当に良いのにと思っています。「故人があなたと出会い、亡くなる日まで過ごせたことを幸せに思い、感謝していることを理解してあげることです」――。私はしかし、やはり、信じたいのです。
☆
死は、日常の延長にはありません。
予期しないもので、また想像しうる「理解」の範疇を超えていました。
私は今、死後の世界を案じ、霊を弔い、祈る――。こうした古来からのしきたりが持つ意味を探り、哲学者の言葉を借り、仏典の教えを頼りに救いをえようともがいています。
お経をとなえて成仏を祈り、故人は海に帰ったのだと落ち着きを取り戻し、空からあなたを見守っていると言われて頷いてはみるものの、いやそうではない、もはやカルシウムと化しただけだ、見守っているかなど分からない、今はすべてが無に帰したのだ、いないという事実がだけが真実なんだと投げやりな気持ちにもなります。
そして最後には、この存在の無、無がもたらす混沌とした感情の渦を、すべて受け入れざるをえないことに愕然とするのです。
私にとって「死」は、受け入れられるものであると同時に受け入れられないものであり、そこに横たわる厳然たる真実でもあり、およそこれまでに見聞きした言説によって説明しうるものではありません。あらゆる書物は私に何かを問いかけますが、いかなる崇高な教えも哲学も、結局は自分の信じる道を模索する行為にほかならないと今は思うのです。
「人の死は、どうにもできない事実である」と友人は言いました。また「残された本人にしかこの事実を消化することはできない」とも言いました。私は小学校来のこの友人の存在に感謝しています。
結局のところ、答えは自分の心の中にしかないのでしょう。
☆
故人がいないと夢で泣き、朝目覚めてやはりいないと泣きました。これがいつまで続くのか、想像すれば果てなくて息苦しくなります。ともに歩んだ道、愛でた景色はいつかの時まで封印されることになるでしょう。それでも、私には生きていくという以外に選択肢を持ちません。こうしてここに今の気持ちを記して、ひとまず今日を生きるという心持ちで立ち上がり、前を向くべく努めています。私は今この時に、声をかけてくれる存在に感謝してやみません。
☆
もしも、これを読むあなたに耐え難いと思うつらいことがあっても、どうか生きてください。あなたがそこにいるだけで、幸せに思う人がいます。あなたの求める言葉のかけ方、優しさの示し方が分からない周囲を許して、生きてください。
もしも、これを読むあなたに愛する人がいるならば、そのことを伝えてあげてください。愛していると抱きしめてあげてください。言葉にしてはじめて伝わることもあると思うからです。
もしも、あなたの支えとなるささやかな喜び、人があるならば、そのことに気づいてあげてください。嬉しいと、ありがたいと伝えてあげてください。伝える相手がいるうちに伝えることに意味があると思うからです。
生きていることに意味があるのかどうか、私には分かりません。それでも、思い通りにならないことが7あったとしても、残り3の喜びに幸せを見出すのが人生なのではないかと思います。そして生あるかぎり、やり直しは何度でもきくものです。そのうち、死は誰の上にも静かに訪れます。長く時間をかけることもあれば、その日は突然訪れるかもしれません。だからその時まで、今そこにある小さな身近な幸せを幸せと気付いて、かみしめてください。きっと人生というのはそうしてゆっくりと歩んでいくものなのだろうと私は思うのです。
by lamusique
| 2009-10-14 14:03
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